なまら春友流

ラーメン屋店主兼ブロガーの春友がラーメン、ガジェット、日常について書くブログ

「命のリレー」と「記憶のリレー」

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「先生かい?」
「いや、違うよ、春友だよ」

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3年ぶりに会う祖母は僕のことが誰だかわかっていなかった。
自分の存在を完全に記憶から消されたことのない僕はただただ戸惑い、そして唐突に涙が出てきた。
ばあちゃんに会いに北海道に帰って来たんだぜ。

確かに会うのは数年ぶりなんだけれども、これでも昔から物凄く可愛がってもらってたんだよ、ほんとに。

何回も自分の名前を言っても思い出してもらえない。
出てくる名前は自分のこども(僕のお母さん)の名前ばかり。
ほんと、命のリレーから不意に投げ出された気分。

でもね、と自分の子供の頃の記憶を思いだしてみる。
自分の記憶では6歳くらいまでは断片的。
記憶というよりはイメージ画像という感じ。
よくおばあちゃんの背中におぶってもらって盆踊りとかに行ってたイメージを思い出す。
抱っこっていうよりおんぶされてるイメージ。
おばあちゃんと同じ目の高さで提灯を見たりお菓子をもらったりしてたイメージ。

で、僕の2人の子供が今起きていることを全部覚えているかというとそんな訳はないだろうなぁと思いつつ、イメージとしては記憶の中にしまっているんだろうなぁとは思ってる。
逆に、今の僕は6歳と4歳の子供がおそらく覚えていないことを100%覚えてる。

サラリーマン金太郎風に言うと、子供ってどんなに大きくなっても「自分の首根っこに抱きついてきた感覚は忘れられない」わけで、この感覚があるから自分の子供のことは覚えてようって思ってなくても自然と自分の記憶に刷り込まれていくわけで。

で、この時の僕の記憶が将来成長した子供と酒を飲みながら話す時に役立つのかなぁと思ったり。
子供の頃の断片的に記憶しているイメージとのマッチングに繋がるのかな?とね。
大人になってから親と話して「あぁ、そういうことだったんだ!」ってことがけっこうあったしさ、個人的には。

人の記憶から自分の存在が無くなるっていうことはかなり衝撃的で絶望感も味わったのだけれども、誰かがずっと自分のことを覚えてくれてるわけはないわけで。
でもね、誰かはずっと自分のことを気にかけてくれてることも知ってるんだけれどね。

「命のリレー」って言葉が結婚する際に義理のお父さんから言われてすごく好きな言葉になっているのだけれど、記憶もリレーしていくんだろうなぁ、って今回の件で気付かされた。

今年100歳になるおばあちゃんが僕のことを思い出すことはもう無いのかもしれないけれど、こども(僕のお母さん)のことをずっと話しているのは孫としてめっちゃ嬉しいわけで。
なんか自分が大人になったのだなぁと感じたりもしてね。
そんな春友の北海道帰省でした。

Posted from するぷろ for iPhone.

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